【天に届け,僕らの「オー!」5連発!!】


Jumbo Forever...

 コーナーに登り,天高く右手を突き上げる。リングサイドのみならず,2階席,3階席のファンまでもが一斉に唱和する勝利の雄叫び。

「オーッ!オーッ!オーッ!オーッ!オーッ!」

 ジャンボ鶴田。日本で数少ない,プロレスに詳しくない人にもその名の知られているレスラー。鶴田さんの訃報は,あまりにも唐突に我々の耳に入ってきた。

 私が訃報を知ったのは,17日の早朝だった。プロレスファンとしてはかなり遅い。私は職業柄,ほとんどテレビを見なくなった。夜は9時頃家に帰ってきて,すぐに風呂に入って寝る。朝は5時頃に起きて,6時半には職場に向かう。そんな生活をしているため,テレビがついていないことが多い。見たい番組はビデオに撮り,休日にゆっくり見ることにしている。情報はもっぱら通勤途中のカーラジオと,早朝つなげるインターネットから入手している。ここから読みとれるように,私は世情に疎い。鶴田さんの急死に世間が騒いでいる間,私は全くそのことを知らないでいたのだ。

 私は目覚まし代わりにラジオをタイマーセットしている。その日もいつもと変わりなく,朝5時にラジオ(AM民放局)が鳴り出した。しかし,前日の激務の疲れが残っていた私は,その日は即座に起きることができなかった。うとうとまどろみながら,40分ほどが経過。宗教の説法や農家向けの番組など,早朝放送が耳を通り抜けていった。5時半から始まる生島ヒロシの番組の朝刊チェックコーナーにさしかかったとき,私の耳に飛び込んできたのは,以下の言葉だった。

「スポーツ紙一面です。元全日本プロレスのジャンボ鶴田さんが肝臓の移植手術に失敗。急死してしまったことを各紙報じていますね。」

 「うそぉ!!」私は眠気がいっぺんに吹っ飛んだ。布団から飛び起き,ラジオに耳を傾ける。しかし,あくまで新聞チェックコーナーのため,それ以上の事はラジオから流れてこなかった。まだ6時前のため,テレビはあてにできない。即座にパソコンを立ち上げ,インターネットにつなぐ。採鉄場のアクセス数がグンと跳ね上がっている。2万ヒットを目前にしていた採鉄場は,鶴田さんの急死により,一気に2万を大きく突破していた。掲示板には死を悼む書き込みが・・・。日刊スポーツのページにも,大きくこの記事が掲載されていた。あまりにも信じられない記事の数々。私は愕然とした。とりあえず採鉄場のトップを暫定追悼モードに切り替え,私は職場へと向かった。途中のコンビニにて,馬場さんのときそうしたように,スポーツ紙を全紙買い求めた・・・。

 馬場さんの時は「入院した」という情報がすでに我々の耳に入っていたが,鶴田さんの肝移植に関しては全くの寝耳に水であった。かつてB型肝炎を患い,戦線を離脱したことは誰もが知る事実だったが,まさか移植をしなければならないほど肝臓ガンが進行していたとは。ポートランド州立大学で元気に研究に励んでいらっしゃることと思っていただけに,非常にショックが大きかった。一時帰国していたことも,ごく一部の人間以外には知らされていなかったという。いったい何故・・・。今となってもその思いは拭いきれない。

 ジャンボ鶴田。以前この王道魂のコーナーでも「全盛期のジャンボ鶴田」というコラムを書いたことがある。その強さは計り知れなかった。やはり30代の鶴田さんが最強であったと思うが,鶴田さんのすごいところは,20代からすでに日本人のトップクラスレスラーとして闘いの最前線に立っていたことである。トップ外国人レスラーと連日の死闘。今の日本プロレス界にこんなレスラーいるだろうか?初めての世界ベルト奪取も,まだ30歳前。馬場さんという強力なパートナーがいたとはいえ,最近の傾向から見ればすさまじい記録である。シングルのベルトも20代。その強さが規格外であったことが伝わってくる。

 鶴田さんはある意味恵まれていたのかもしれない。今の日本マット界には「強豪」と呼ばれる外人レスラーが少ない。世界タイトル戦も,日本人同士の対戦が多く,世界タイトルという実感が少ない。団体内のトップレスラーを決めるだけになってしまっている気がする。しかし,鶴田さんが世界タイトルを奪取したとき,相手はJ・ブリスコ,B・ブロディ,N・ボックウィンクルと,いずれも有名な強豪外国人レスラーだった。また,三冠タイトルを統一した相手も,S・ハンセンというビッグネームであった。オリンピック等でも分かるように,日本人はとかくスポーツ面において他国の選手にかなわないことが多い。日本人である鶴田さんが,いわば「格上」に写る強豪外国人をばったばったとなぎ倒す様は,我々の目にはテレビ番組のヒーローのように映ったのも当然だった。

 長州との60分引き分け,天龍を失神させたパワーボム,三沢を返り討ちにしたバックドロップ,川田を退けた戦慄のバックドロップホールド・・・。数え上げたらきりがないくらい,鶴田さんの勇士は浮かんでくる。他にも,会場をひとつにする「オー!」という叫び,そしてあのジャンボ・スマイル・・・。ただ強いだけではなく,誰からも慕われる人だったことが推し量られる。

 私が大学院を受験したのも,鶴田さんの影響が少なからずある。大学院という人生の選択肢が目の前に現れた瞬間,鶴田さんも大学院を受験されたことが頭に浮かんだ。あこがれの人と同じ「大学院卒」という学歴。大学院在学中には,鶴田さんからメールを戴いたこともある。私にとって鶴田さんはやはり特別な存在だったのだ。

 5月27日。採鉄場スタッフが一同に会し,全日本郡山大会を観戦しに行ったとき,売店の横に飾られていた鶴田さんの写真。私が深々と手を合わせたのは言うまでもない。

 「人生はチャレンジだ」と語っていた鶴田さん。その言葉通り,肝炎にプロレスを奪われても,研究中にガンに侵されても,絶えず前進するためチャレンジを続けた鶴田さん。私たちは,あなたを誇りに思います。プロレスのファンで良かった。ジャンボのファンで良かった。胸を張ってそう叫ぶことができます。ありがとう!ジャンボ鶴田!!

 改めまして,ジャンボ鶴田さんのご冥福をお祈りいたします。天に届け,僕らの「オー!」5連発!!

(文責:山杜一平)


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